〈円融の集い場〉産芸学官 円融の対話
「ヴァーチャル空間は人と社会のあり方をどう変容させていくか」
身体、自由、そして円融──工学・ビジネス・舞踊・スポーツ科学の見地から問い直す、「リアル」の輪郭
稲見昌彦氏・阿部博氏・宇津木安来氏・為末大氏 講演&クロストーク

■概要
・テーマ: 「ヴァーチャル空間は人と社会のあり方をどう変容させていくか」
・日時: 2026年7月24日(金)16:00〜18:00
・会場: 三井住友銀行本店3階ホール およびTeamsウェビナー
・主催: 東京大学先端科学技術研究センター/一般社団法人 社会的価値共創フォーラム(共同主催)
・共催:三井住友銀行
■登壇者プロフィール
稲見昌彦氏:
東京大学先端科学技術研究センター教授。身体情報学分野。人とAI・ロボットが協働して能力を拡張する「自在化」の概念を提唱している。
阿部博氏:
有限責任 あずさ監査法人 パートナー/公認会計士。常務執行役員・インキュベーション部長。スタートアップ支援とイノベーション推進を担う。同法人の社会的価値共創フォーラムへの特別会員参画を主導した。
宇津木安来氏:
株式会社アートチューンズCEO、日本舞踊家・日本舞踊研究者。言語学・記号学とバイオメカニクスの手法を用いて日本舞踊の構造を研究してきた。
為末大氏:
東京大学先端科学技術研究センター教授、附属包摂社会共創機構。元陸上競技選手、400mハードル日本記録保持者。人の可能性と社会の包摂を研究テーマとする。
杉山正和氏(ファシリテーター):
東京大学先端科学技術研究センター所長・教授。
■サマリー
本セッションは、東大先端研、社会的価値共創フォーラム、三井住友銀行の三者共催で開催。工学、会計、舞踊、スポーツ科学の異なる四つの領域の実践者と研究者が、ヴァーチャル空間と人間の関係を論じた。
稲見昌彦氏は、ヴァーチャルをコンピューターの中に限定せず、人間の頭の中まで含めて捉え直すよう論じた。阿部博氏は、資本とイノベーションが絡み合ってきた歴史をたどり、だからこそ思想と哲学が必要だと説いた。宇津木安来氏は、日本舞踊を、身体動作と意味内容がセットになった「運動体系」として分析。為末大氏は、記録も知覚も頭の中の認識に規定されていると述べてリアルとヴァーチャルの境界自体のあいまいさ、リアルの定義そのものを問い直した。
後半のクロストークでは、コミュニケーションの中心にあるのは身体であり、ヴァーチャルはその伝達媒体であるといった認識が共有され、議論はさらに広がった。情報が自由に流通するほど、むしろ分断は加速する。それを超えるのは組織ではなく、複数の集団に属する個人である。本来自由とは好き勝手行動できる状態ではなく、意思をもって制約から解放に向かう変化でありプロセスなのではないか──。
答えは一つに収束しなかったが、「身体性」を第一に置いたうえでヴァーチャル空間とうまく付き合っていくという方向性は登壇者全員に通じていた。
■開会挨拶「そもそも、それは人なのか?」
開会の挨拶に立った一般社団法人社会的価値共創フォーラム代表理事の吉田哲臣氏は、本セッションについて社会の複雑な課題と、その奥にある根本的な問題を対話によって解き明かす場だと述べた。
情報空間は世界をつなぎ、宇宙をもつなぎ、人間の活動の拡張性を高めてきた。だがAIの登場で、情報のインプットとアウトプットの方法が大きく変わった。どこで、誰とつながっているのか。そもそも、それは人なのか。人間の価値観というのをどう考えるかによって、人の未来は変わってくるのではないか──。今回のテーマを設定した理由についてこのように語った。
この問いは情報技術の専門家だけで扱えるものではなく、さまざまな文脈から登壇者を迎えた。本質を見つけたいと吉田氏は述べた。

■講演①「ヴァーチャルは、頭の中にもある」稲見昌彦氏
「自動化」ではなく「自在化」
稲見氏はまず、一本の映像を示した。研究室の博士課程の学生が製作した、ルービックキューブを高速で解くロボットである。
その学生にとって、ロボットづくりは初めての経験だった。AIに尋ねながら3Dプリンターの使い方を調べ、モーターを選び、組み上げた。完成したロボットは、いきなりギネス記録の3倍の速さでキューブを解いたという。稲見氏自身、かつて機械系の分野で3年かけて教えていた内容が、いまは1時間程度で身についてしまうと述べた。
こうした人とAIの組み合わせは一般に「自動化」として語られるが、稲見氏が提唱するのは「自在化」だ。人がやりたいことを自由自在に実現できるよう、人とAI、人とロボットが二人三脚で助け合う。腕の本数を増やす身体拡張の研究も、この線上にあると語った。

頭の中の世界を、実体化して引き出す
「ヴァーチャルは決して、コンピューターの中だけにあるわけではありません」。稲見氏はテーマそのものを拡張した。脳は情報システムそのものである。頭の中で考えていることや空想していることもヴァーチャルだというのだ。
例に挙げたのは、100年ほど前にドイツで話題になった「賢い馬」である。算数ができるとされたこの馬は、実際に計算していたわけではなかった。正解の数に達した瞬間、それを見ている人間の頭がわずかに動く。0.2ミリほどの、本人も気づいていない反応である。馬はそれを読み取って、蹄を止めていた。
稲見氏の研究室は、この原理を現代の技術で扱おうとしている。センサーも電極も装着せずに、身体の動きや意図から、頭の中のヴァーチャルな世界を実体化して引き出す。それが進めば、ヴァーチャルとリアルの接点は広がっていくと述べた。
■講演②「イノベーションは常にお金と絡んでいる。だからこそ思想が必要」阿部博氏
資本とイノベーションは、常に併走してきた
阿部氏は、両者の関係を歴史的にたどった。
大航海時代、航海には資本が要った。だが船が途中で沈むリスクがある。そこでリスクを持ち分として大勢で保有して、状況に応じて持ち分を売買で調整する仕組みが必要になり、アムステルダムに証券取引所ができた。産業革命を経て、より長期で高額の資金が求められるようになると、ニューヨークなど各地で証券取引所が生まれる。
20世紀に入り株式市場が発展して株主の力が強まると、成果が出なければ資金を引き揚げられるようになる。そこで企業は、自前ですべてを抱える方式から離れていった。そして21世紀、大学や研究所を軸としたオープンイノベーションの時代が来る。
その裏返しが、資金の偏りである。ヴァーチャル技術やフィジカルAIには資金が集まりやすい。一方、例えば希少疾患は「儲からない」ために医療技術が進まない。企業は価値創造のストーリーを語るが、株主が最後に問うのは配当だ。イノベーションといっても、お金の論理だけではなかなか突き抜けられない。そう阿部氏は語った。

技術は、使い方を間違えれば人を生きづらくする
阿部氏が思想の世界に深く入ったのは、約30年前、ある人物との出会いがきっかけだった。その後、当初は志のあった企業経営者が途中から金銭を目的とするように変わり、失敗していく例も見てきたという。「ものの考え方、哲学、思想はすごく大事だ」。そう考えるようになったと語った。
2026年5月19日、日本経済団体連合会(経団連)が提言「科学技術立国戦略」を公表し、思想・哲学を支える基盤の強化を掲げた。阿部氏はこれに触れ、「非常に勇気づけられた」と語った。
大学発スタートアップの海外展開を支援するなかでは、大学がロボット同士を戦わせる競技への参加を求められる状況にも接してきた。その背後に軍事的な文脈があることも少なくないという。
「技術の使い方を間違えると、人間が生きづらい世界になっていく」。だからこそ思想と哲学が要る。阿部氏は講演をこう締めくくった。
「ヴァーチャル空間はツールとして使いながらも、最後は人間が現場にいて、自分の思いをつないでいくことが大事です」
■講演③「日本舞踊は、一瞬で文章構造を表す運動体系である」宇津木安来氏
時間軸に直交した、面状の体系
宇津木氏は、修士課程で言語学と記号学を用いて日本舞踊の構造を分析した。博士課程ではモーションキャプチャーに移り、運動の構造そのものを扱っている。体幹部に多数のマーカーを配置することで、これまで明らかにされてこなかった技法を可視化した。
その核心を、宇津木氏は言語との対比で説明した。
言語は、音と概念を結びつけて成り立っている。どの音がどの意味を指すかは、社会的な取り決めにすぎない。日本舞踊も同じで、一つひとつの身体動作に意味内容が結びついている。宇津木氏はこれを「運動体系」と呼ぶ。
決定的な違いは、情報の並べ方にあるという。言葉は、時間の流れに沿って一列に並ぶ。単語を一つずつ、順に置いていくしかない。これに対して日本舞踊は、複数の情報を同じ一瞬に重ねていく。どんな職業の女性が、何を見ていて、どんな気持ちで、いま何をしているのか。主語にあたる情報も、動詞にあたる情報も、目的語にあたる情報も、同時に立ち上がる。宇津木氏はこれを、時間軸に直交した「面状構造」と呼び、「一瞬で文章構造を表すことができるような体系になっている」と解説した。
この構造は、世界の身体文化のなかでも珍しいという。多くの身体表現は、体全体で「愛」や「星」といった単語を表す。日本舞踊は、単語ではなく文章そのものを体で表現しているのだ。

豊かさは、そのまま敷居の高さでもある
その豊かさは、同時にわかりにくさでもある。日本舞踊では、手を胸に当てる位置が上なら若い女性、少し下がれば年を重ねた女性を意味する。こうした約束事を知らなければ、意味は通じない。
「フランス語の単語の意味を知らなければ、いくら美しい詩を詠まれても、どんな内容を表現しているかはわからない」。敷居の高さにつながる一方で、それが高度な文化を成立させている。宇津木氏はそう述べた。
日本舞踊が危機的な状況にあるという認識のもと、現在、宇津木氏は世界から需要を生むためのプラットフォームとデータベースを構築する会社を経営している。下敷きにあるのは、世阿弥の芸論だ。
演者の芸位は段階に分かれている。だが階層があるのは演者だけではない。見る側にもレベルがあり、その頂点に「目利き」がいる。しかし、両者が出会うだけでは足りない。
梅の花は、そのまま咲いていても芸術にはならない。しつらえた茶室に活けると「素晴らしい」と受け取られる。環境を整えることが、花が花として花開くための条件なのだ。この構造をオンラインのプラットフォームにどう実装するか。それが宇津木氏のいまの課題であると述べた。
■ 講演④「そもそも、リアルとは何なのか」為末大氏
「10秒を切った人間がいる」という認識が、記録を動かした
為末氏は、11歳になる息子の話から始めた。
4歳でタブレットを渡すと、サンドボックスゲーム「Minecraft(マインクラフト)」を始めた。途中で手を止め、作り方の動画を音声検索で探し、それを見てまた作る。「学習のループができていた」。私もそのループに入らねば──そう考えた為末氏は、自身の走り方の動画を撮り始めたという。
ヴァーチャルの定義を拡張して示したのが、陸上競技の記録である。
日本の男子100メートルでは、1998年に10秒00が出た。だがそこから約20年、9秒台は出なかった。ところが2017年9月に桐生祥秀選手が9秒98を出すと、2019年にはさらに2人が続き、2021年までに計4人が10秒の壁を破った。
すべての選手が、常に全力で練習している。その数年だけ急に努力量が増えたとは考えにくい。では何が変わったのか。「10秒を切った人間がいる」という、私たちの頭の中の認識である。実際にレースを見ていなくても、新聞で知るだけで各選手のベストタイムが変わってしまった。
為末氏は、選手同士で影響の及ぶ範囲にも注目する。ジャマイカの選手が記録を出すと、アメリカや南米の選手は刺激を受ける。だがアジアの選手には及びにくい。逆に日本人の記録が伸びると、中国や韓国の選手の記録が伸びやすい。「私たちは無意識に、何が自分と似ているのかを感じ取っていて、それによって限界値が変化している」。歩行の研究にも触れた。遺伝以上に、育った文化圏の影響のほうが大きい可能性があるという。

私たちが見ている世界は、脳が編集したものである
為末氏は、「リアル」そのものにも問いを向けた。
人間の目には、構造上まったく見えない盲点がある。だが日常でそれは自覚されない。脳が編集して埋めているからだ。食事も同じである。匂いと味と食感は一気に立ち上がるように感じるが、実際には時間的なずれがある。脳がそれを統合して、「おいしい」という感触として提示している。「リアルなものを見ている感じがしているけれど、その間に『編集』が挟まっている」。
究極の動きを出したいとき、邪魔になるのは言語的な分類だとも述べた。言葉が世界を分けすぎていると、体はうまく動いてくれないのだという。「そもそも私たちがリアルだと感じているものは何なのか。そこから始めていくと、デジタルな空間は特別な世界ではなくなるのではないか」と投げかけた。
■クロストーク①──扇子一本で「ないもの」を立ち上げる
後半、杉山正和氏のファシリテートによるクロストークに移った。
杉山氏は、最初の問いを宇津木氏に向けた。所作の持つ意味を知らなければ、意図は伝わってこない。だとすれば、日本舞踊そのものはリアルなのか、ヴァーチャルなのか?
宇津木氏は、手にしたマイクを扇子に見立てて応えた。これを徳利だとする。酒が入っているかを確かめるように、少し揺する。水は入っていないが、あるかのように傾ける。そこから注ぐ。「お扇子一本を使って、ないものを表現するということを膨大にやっていくのが、まず日本舞踊です」。

物理的な重量は変わらない。だが「重み」は変えられる。見る側は、日常で蓄積してきた物理現象の記憶と照合し、酒が入っているのだろうと想起する。
ここで工学の側から接続したのが、稲見氏だった。
「いまおっしゃっていることは、ロボットの言葉では「インピーダンス制御」と言われている考え方です」
1キロのものを軽く動かすのか、10キロのものを重く動かすのか。ロボット工学が扱うこの感覚は、人間が重いものを持ったときの体の動きに、そのまま埋め込まれている情報ではないか。
宇津木氏は、さらに例を加えた。関節の位置だけが光の点として見える映像でも、動きだけで何キロのものを持っているかがわかる。巧みな演者は、男性か女性かまで表現し分けられるという。
杉山氏がここまでを整理した。「いずれにしても、我々は、ヴァーチャルを媒体として身体動作が身体動作に伝わるというコミュニケーションをしていることになる」。送られていくのはヴァーチャルな信号だが、受け手のなかで起きているのは身体の現象である。とすればコミュニケーションの中心にあるのは人間の身体であり、それをいかに伝えるかというところに、伝達媒体としてのヴァーチャルの役割が浮かびあがる。
■ クロストーク②──情報爆発が、分断を加速させる
杉山氏は、議論の前提となる状況を示した。情報の伝達速度は、人間が物理的に移動できる限界をはるかに超えた。流通する量も、脳が処理できる規模を桁違いに超えている。
「それでも私たちがコミュニケーションを取るときは、体から体に伝えている。身体とコミュニケーションの関係性が、ここに来てバランスを崩している気がします」

阿部氏は、監査業務での実感で応じた。膨大な数字を扱う仕事にAIが入り、便利になった。だが、自分が考えていた数字と違う結果が出ることがある。
「過去のAIが持っている情報以外の感覚が人間にはあって、『これは違うのではないか』という感覚が結構当たることもある」と阿部氏。
情報はなぜ偏るのかという問いに対し、稲見氏は、多いところにはさらに集まり、少ないところは減るという性質を挙げた。お金も情報の一種と考えれば、同じことが起きている。
そこから稲見氏は、「分断」そのものの捉え直しに進んだ。細胞は膜という分断を作ったからこそ生物になったとも言われる。「我々は分断というものによって生物になった」。
さらに、小学生の頃に読んだ未来予測にも触れた。世界に情報ネットワークができれば、みなが情報を交換し、仲良くなる。そう書かれていたという。
「知れば知るほど仲良くなるというのは、多分このことの半分でしかなくて、逆に違いがわかるから別れていくこともある。高速に伝送するから、むしろ分断が加速するという側面もある」と稲見氏。

議論は、一人の個人が複数の集団に属することの意味へ向かった。
一人の人間は同時に複数の顔を持つことができる。ある場面ではこのグループ、別の局面では別のグループ。逆に、一つの基準だけで人を分けてしまうと、分断は決定的になる。つまり、分断があること自体が悪いわけではない。個人がそれぞれの側に足をかけ、隔たった世界をつないでいけばよい。組織が組織をつなげようとしてもうまくいかないが、個人が複数の所属を持つことは機能する。
杉山氏は、この考え方には名前があると指摘した。「マルチレベル・アソシエーション」、フォーラムが過去に開いた「人はなぜ戦争するのか」というセッションで出てきた概念だ。新しいのは、それが成立する条件のほうだ。情報の流通が発達したことで、かつては不可能だった複数への所属が、現実に可能になった。
ただし、と杉山氏は続けた。大量の情報の中でそれをこなせる人とできない人がいて、対応できる速さも違う。「今までなら起こらなかった過度な集団への依存が起きて、むしろ不幸な結果になっている」。
ここで為末氏が、宇津木氏に問いかけた。文化的なズレが大きいほど、独特のオリジナリティが出るのではないか。宇津木氏は5歳までアメリカで暮らしていたため、歌舞伎を初めて見たとき「斬新だ」と感じたことを挙げた。
「古典であればあるほど、海外から見たときにはすごく斬新に見える」。そこから宇津木氏は、コミュニティへの依存を「自由」の問題として捉え直した。
日本語で自由というと、「責任がなくていい」という意味合いで受け取られることがある。だが英語圏で、リバティの対義語はスレイバリー──奴隷的であることだという。本当の自由とは、自分ですべての行動を選択し、責任を持つことだ。そしてその連続性が、倫理観や美意識になっていく。
伝統芸能の家元制度も、構造は君主制に近い。「気づかないうちに、若干奴隷的なマインドになっている部分があるのかもしれない」。コミュニティも同じ、若い世代は、物理的な距離と関係なく帰属したいカルチャーを選ぶ。しかし時間が経つと、そのコミュニティの価値観を疑わなくなる。「AIの時代なので、どういう選択をして、どういう倫理観で何を選ぶかが人間の価値になっていく」と述べた。
■クロストーク③──ヴァーチャル空間は、人間を自由にするのか
杉山氏はここで問いを定義し直した。「技術の進展がもたらした情報の流通と処理の進化は、人間を自由にしているのか」。
稲見氏は、メタバースで観察されている現象を紹介した。外見上の性別としては、女性のアバターが多い。女性を選ぶ男性が多く、女性も女性アバターを選ぶ。「プロテウス効果というものもあって、使う身体によって行動や考え方までわずかに変わる」。身体が切り替わり、その身体が心に働きかける。
稲見氏は、その限界も明確に語った。五感のうちヴァーチャルで伝達できているのは、視覚と聴覚に限られる。次に実現するのは触覚だと言われている。だが味覚として認識する要素が数十種類、嗅覚には数百あるとされる。ヴァーチャルにおける解像度についてはまだ「石を砕いて絵の具を作って絵を描いていたのと同じくらいの段階」と語った。
為末氏は、身体の側から自由の輪郭を描いた。人間が目で捉えてから、脳を経て体に指令が届くまでには0.5秒ほどかかる。ところが時速100マイルの投球は、それより短い時間で打者の手元に届いてしまう。「大谷翔平選手は、視覚で捉えて脳まで上げて判断している回路ではないはずです」。

見て、考えて、振る。その順番では反応が間に合わない。打撃を成立させているのは意識ではなく、無意識の身体感覚である。そして無意識は、定義上、意識ではコントロールできない。
「自由になっている領域は意識的な領域であって、お腹が空いたとか恋に落ちるといったことはコントロールできていない」
外界は思うようにならない。自分の無意識も思うようにならない。その二つの不自由さに挟まれた狭い場所に、「自由になる意識」の世界がある。そこへさらに、ヴァーチャルという世界が現れた。
そのうえで為末氏は、同じ先端研に所属する熊谷晋一郎氏の考え方を引いた。依存先が一つしかない状態こそが不自由であり、頼れる先を増やすことがそのまま自立になる、という捉え方である。「意識的に自由になろうとするよりも、もう少し委ねる感じでしょうか。海で言えば、浮き輪が6個くらいある状態でうまく浮いていく感じです」。
稲見氏はこれを受けて、自由の定義そのものを更新した。
「自由というのは状態ではなくて、変化を促進するものではないか」。制約と解放のあいだにこそ、自由がある。ゲームが成立するのも、ルールという制約があるからこそだ。
宇津木氏は、メッセージングサービスの立ち上げに携わった人物から聞いた話を紹介した。オンライン空間は無限に広げられる。だが人間を活発に活動させるには、ある程度の狭さを用意する必要があるという。「無限の空間に置かれると、人間は座り込んで活動しなくなるらしいんです」。
それでも直接会うことに価値があるのはなぜか。この問いも交わされた。
前日にロンドンから帰国したという阿部氏は、同じ空間で顔を合わせ、それぞれのシグナルを見ていると、おのずと方向性が見えてくると語る。「どこまでもヴァーチャルはヴァーチャルで、現実は現実だと思います」。
稲見氏は、情報の経済性から答えた。「我々は、どれだけコストをかけたか、物理的なエネルギーをかけたかというところに価値を感じている」。例えば写経は、自らの手で行うからこそ価値がある。
さらに「レトロニム」という考え方を紹介。機械による製造が生まれたからこそ「手作り」という言葉が発明された。タイプライターができたからこそ「肉筆」という言葉が生まれた。
宇津木氏は、ヴァーチャル空間の役割を別の角度から位置づけた。「人生は短いので、最大のパフォーマンスを出すためには、出会うべき人と出会えることが優先順位のトップに来ると思っています。私がしたいのは、天命の出会いのようなものです」。
阿部氏は共感を示しつつ、条件を加えた。「『円融』の境地に行く前に、自分の意見と相手の意見がぶつかり合って、そこで初めて何を感じるか。それがポイントなのではないか」。

為末氏が、神経科学の知見を引いた。脳の特定の部位を損傷した患者は、実験室の課題についてはまったく問題がない。ところが実社会に出ると、詐欺に遭うことがある。
「人を見て判断するとき、私たちは頭で考えるより先に皮膚が反応して、この人は怪しい、怪しくないということを身体が類推している。だからリアルで人に会うことが大事だ。ただし、人間関係ができた後は、おそらくヴァーチャルで判断が効く」。

為末氏はもう一つ、自身の体験を紹介した。
オンライン会議に、画面をオフにして参加したことがある。表示されていた名前が普段と違ったため、先方は自分の会社の社員が入ってきたものと勘違いした。そのあいだ、明らかにいつもとは違う扱いを受けた。画面をオンにした途端、深く謝られたという。
同じ人間でも、相手にどう見えているかで扱いは変わることを身をもって経験した。そしてヴァーチャル空間でなら、この経験は意図的に作ることができる。自分の見え方を人種でも国籍でも性別でも変えて、それぞれがどう扱われるのかを体験できる。
「ヴァーチャルは実は学習として大変よいんじゃないか。いろんな人の視点を経験することが、結果として円融につながるのではないか」と為末氏は述べた。
■身体性を中心においてヴァーチャルワールドを利用する
ファシリテーターの杉山氏は、次のように総括した。
「ヴァーチャルワールドを敵視するものでは全くない。ヴァーチャルワールドが私たちのリアルワールドを置き換えることも全くないし、おそらく攻め込んでくるものでもない」。ヴァーチャル空間は自由を増やすが、それが人間を本当に自由にするかどうかは、私たちの「身体性」に依っている。
「人間の身体性を第一に大事にしながら、ヴァーチャル空間と賢く付き合いましょう──ということに尽きるというのが、今日思ったことです」
四者の答えは一つに収束しなかったが、共通して浮かび上がったのが、ヴァーチャルを人間の外側にある別世界として捉えるのではなく、身体を中心に置いたうえでの伝達媒体として捉え直すという方向性である。